「地域のために神社はある。」地域のために力を尽くす2人の男たち。
黒神直大
(遠石八幡宮宮司、山口県神社庁副庁長、株式会社遠石会館代表取締役、周南市体育協会会長、周南市中心市街地活性化協議会TM会議委員長ほか)
01.プロフィール
1962年、周南市生まれ。徳山高校を卒業後、國學院大學文学部神道学科で神職資格を取得。京都の石清水八幡宮に神職として務めた後、平成元年に禰宜(ねぎ)として実家である遠石八幡宮へ。その後、平成27年から第57代宮司に就任。
「神社を支えてくださっているのは地域の皆さん。地域のために役に立つことをしなさい」という祖父・父の教えのもと、長年、地域の発展のために尽力。現在は、遠石八幡宮の宮司ほか、周南市体育協会会長や周南市中心市街地活性化協議会タウンマネジメント会議委員長などを務め、地域の活性化に力を注ぐ。
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中野憲一
(遠石会館 料理長)
01.プロフィール
1972年、周南市生まれ。大阪の料亭で修業後、周南市にUターン。周南市内のホテルで料理人を経験した後、35歳で遠石会館の料理長に。何よりの喜びは「お客様からの『おいしい!』という言葉」。料理人の道を歩んで約30年、遠石会館の料理長として13年が経った現在でも料理への情熱は全く尽きないという。
遠石会館オリジナルおせち「八幡さまのおせち」
遠石会館のおせち「八幡さまのおせち」は、保存食の意味合いが強い元来のものとは少し異なり、周南市の厳選食材を使ったこだわりの料理も取り入れた「食べやすい」おせち。中野憲一料理長に特徴を伺ったところ、「数の子や黒豆などお祝いの意味を持つおせちの定番保存食だけでなく、周南の素材そのものの味が存分に楽しめる料理も詰め込みました。通常のおせちは濃い味付けにしますが、遠石会館のおせちは周南市内のお醤油屋さんのお醤油を使って、薄めのちょうどいい味付けにしていますので、お子様からご高齢の方まで幅広く喜んでいただけると思います」と教えてくださいました。
ブリ、タコ、フグと周南自慢の「美味」が勢ぞろい!
遠石会館で販売するおせちは3種類、200個の限定。また、周南市のふるさと納税の返礼品としてもおせち(1種類)を出品しています。
それでは、遠石会館で販売されるおせちの中身をご紹介します。
●壱の重
柚子釜〜フルーツなます〜、黒豆金箔落とし、いくら醤油漬け、鶏砂肝コンフィ、周南産鰤南蛮漬け、数の子、赤なまこ、レモンきんとん、蒲鉾(紅白)
●弐の重
といしの卵焼き、周南産蛸の柔らか煮、山口県産鰆柚庵焼き、焼き海老艶煮、国産鰻真丈、桃餅、干し柿チーズ、さつま芋甘露煮(寅型)、ピース
●参の重
徳山河豚ステーキ〈梅肉ソース〉、ズワイ蟹ツメ、遠石会館手作りローストビーフ、熟成豚煮甘酢煮、鮑柔らか煮、ブロッコリー、筍土佐煮
ブリ、タコ、フグと各重に周南市産の魚介を使った一品を入れたほか、野菜もできる限り周南市産を使うというこだわりよう。「周南の美味を一品でも多く味わってもらいたい」という料理長の想いが伝わってきます。
ちなみに料理長イチオシの品は、「参の重」に入った徳山河豚ステーキ。刺身や唐揚げで食すことが多いフグですが、ステーキで、しかも梅肉ソースと一緒に味わうことで、これまでとは違うおいしさを堪能できそうです。
家で年神様をお迎えするかつてのお正月が戻ってきた
昨年から始まった「八幡さまのおせち」ですが、実は10年以上前に一度だけ、近鉄松下百貨店で販売したことがあるそうです。「とても好評で翌年からもぜひとお声をかけていただきましたが、例年、年末年始は宴会のご予約がいっぱいなのでとてもじゃないけれど対応できないと、お断りせざるを得ませんでした。結局、この一回きりで終わってしまっていました」と料理長が当時の状況を話してくれました。
それではなぜ、昨年からおせちの販売を始めたのでしょう?
実は続くコロナ禍の影響だと言います。「コロナ禍により、自宅でお正月を過ごすご家庭が増えました。門松や鏡餅を飾り、家で年神様をお迎えするかつてのお正月スタイルが戻りつつあるんです。それに伴い、『遠石会館のおせちでお正月を迎えたい』という声が多数届くようになりました。しかも時代は変わり、今やおせちは作るものではなく、買うものと考えるご家庭も多くなってきました。数あるおせちの中から遠石会館のおせちを望んでいただけるのですから、その声にお応えしたいと販売を決めたのです」。遠石会館では年末年始の宴会に支障がないよう、おせち作りのための設備を入れ、万全の体制を整えているそうです。
家族と一緒に過ごす昔ながらのお正月は、「八幡さまのおせち」でもっと華やかに。気になる方は遠石会館に問い合わせていただくか、市外の方であれば、周南市のふるさと納税をチェックしてみてください。
周南市緑地公園に隣接する豊かな自然に囲まれた遠石八幡宮は、平安朝の時代から多くの人が参拝に訪れる由緒正しい神社です。神社は長きにわたり地域コミュニティの核として機能しており、遠石八幡宮も今日に至るまでその役割を果たし続けています。今も昔も地域の人々から愛される遠石八幡宮の第57代目となる宮司・黒神直大さんに、まちへの想いや周南市の歴史について伺ってみました。
「神職になってほしい」という父の言葉を受けて
「幼い頃から遠石八幡宮を受け継いでいかねば、という想いはあったのですか?」という問いかけに、黒神さんは優しい笑顔で答えてくれました。
「周りからそう言われていましたし、自分でもいずれは遠石八幡宮を継ぐのだろうとは思っていましたが、普通の子どもと一緒で『将来はプロ野球選手になりたい!』というような夢もありました。将来について現実的に考えるようになったのは大学に進学するタイミングでしたね。神職になるのか、それとも違う道を選ぶのか。まあ、父には『自分の人生だから自分の考えた生き方をしてもいい。だけど神職にはなってほしい』と言われましたけれど。父も祖父も神職をやりながら、いろんなことをやっていましたからそう望まれるのは当然のことだったと思います。父の言葉を受けて、神職の資格だけは取っておかねばと、國學院大學文学部神道学科に進学しました。」
大学で神職の資格を取得し、卒業後は京都の石清水八幡宮で奉仕した黒神さんが、禰宜として遠石八幡宮に戻って来たのは平成元年のこと。日本はちょうどバブル景気の絶頂を迎えていたそうです。
「都会ほどではないですが、徳山地区のまちもバブル景気の影響を受けて賑わっていました。強烈に印象に残っているのは、やっぱり徳山駅前の商店街にマハラジャ(※1)がオープンした時のことでしょうか。まち中ひっくり返したみたいな大騒ぎで、なぜか父がテープカットに招かれていたのを覚えています。山口県内で唯一のマハラジャでしたから、その当時、いかに徳山地区が栄えていたかがわかります。」
旧徳山市に戻って来た黒神さんは、禰宜として奉仕しながら、青年会議所に所属して平成の大合併(※2)に関わるシンポジウムを開催したり、中心市街地活性化協議会の立ち上げに関わったりと、徳山のまちを活性化させるために走り回っていたそうです。
※1 1980年代〜1990年代に日本全国で展開された高級ディスコチェーン店が徳山に。
※2 平成11年から行われた政府主導の市町村合併。山口県は56市町村が合併されて19市町に。平成15年4月、徳山市・新南陽市・熊毛町・鹿野町の合併により周南市が誕生した。
祖父と父から受け継いだ地域への想い
遠石八幡宮で神職を務める中、自然な流れで地域との関わりに重きをおくようになったという黒神さん。その背景には神職の先輩である祖父と父からの教え、そして二人から何度となく語られてきた地域への想いがあると言います。
「遠石八幡宮は昔から地域の方々に崇敬していただき、守り、支えてもらってきました。祖父と父からは『地域が栄えなければ、神社は栄えない。地域のために神社がある』と教えられてきましたし、二人がいかにこの地域を大切に思っているかということも、何度となく聞いてきました。さらに、宮司を務めながら地域のためにいろんなことをやっている父の姿を実際に見てきましたし、祖父の市長時代のエピソードも周りの方々からよく聞いてきました。こんな環境で育っているのですから、私が地域を重視するようになったのはごく自然なことだったと思います。」
黒神さんに受け継がれた「地域のために神社はある。地域のために力を尽くさないといけない」という想いは、青年会議所の活動を通じて地域の経済人との交流が増えたことでますます大きく膨らんでいったと言います。
「地域の経済人とのお付き合いはとても良い社会勉強になりました。バブル景気が終わり、徐々に寂しくなっていく徳山のまちを見ると、『地域をどうにかしないと』という思いはますます強くなり、みんなで一緒に旧徳山市・下松市・光市の経済圏の一体化を目指していたことが懐かしいです。」
「県庁所在地である山口市は公務員のまち、下関市は福岡県、岩国市は広島県に経済圏が引っ張られがち。徳山がしっかり頑張って山口県の経済を支えなければ!」。黒神さんを含め当時の青年会議所のメンバーはそんな想いを胸に活動していたそうです。
まちの基礎を築いた祖父・黒神直久氏
黒神さんの生き方に大きな影響を与えた祖父・黒神直久さんは、遠石八幡宮の第55代目宮司であり、1952年から1961年までの間、旧徳山市長を務めた人物でもあります。
「前市長が亡くなられ、急遽祖父が市長になったと聞いています。1953年には徳山競艇場(現ボートレース徳山)を開場、1957年には出光にとって初めての国内製油所を誘致、1960年には徳山動物園(現周南市徳山動物園)を開園…と、戦後間もない頃の市長就任ですから、とにかく祖父は徳山のまちの復興のために奔走していたみたいです。私にとっては普通の優しいおじいちゃんでしたから、成長する過程で周りから祖父の功績を聞き、その度にびっくりしていました。今でも『あんたのおじいさんのおかげでまちが復興した』と感謝されることがあり、本当にすごいことを成し遂げたんだなと痛感させられています。」
祖父・黒神直久氏に関わるエピソードを聞かせてほしいとお願いしたところ、興味深いお話が聞けました。
「徳山動物園ができたきっかけを作ったのは1頭のクマだったそうです。曲芸をするためにクマを連れてやって来たアイヌの人が、帰りの電車賃の代わりにクマを1頭置いていったことが全ての始まりだとか。駅長さんから相談された祖父は、とりあえず競艇場で熊を飼うことにしました。そしてタイミングがいいことに、ちょうどその頃、とあるクリスマスパーティーで毛利さん(※3)が景品だったライオンの子どもを当てたのです。毛利さんと祖父とで相談した結果、クマもライオンもいるならと動物園を開くきっかけになったと聞いています。」
「今では面白い昔話として語られることが多いですが、徳山動物園の開園は地域の皆さんへのご恩返しの意味もあったようです」と黒神さんは続けます。実は、黒神さんの祖父・直久氏は徳山競艇場の開設にあたり、市民からの大変な反対を受けた過去があるのです。
「当時、競艇場は戦後復興の一環として戦災を受けた地域に優先的に作られており、市長だった祖父もまちの復興のためにと誘致合戦に乗り出しました。しかし、一部市民は大反対。一人一人に頭を下げて回り、どうにか理解を得て開設した徳山競技場ですから、祖父は、そこで得た収益はどうしても徳山の子どもたちのために使いたかったようです。」
感謝されることもあれば、その逆もある。このエピソードだけでも、まちづくりの背景に数々の苦労があったことが容易に想像できます。黒神さんは自身もまちづくりに携わる中で、現在の周南市のまちの基礎を築いたとも言える当時の人々の努力を尊いと感じ、周南市民の一人として心から感謝していると話してくれました。
※3 周防徳山藩毛利家12代当主毛利元靖氏。徳山動物園は、毛利藩の跡地につくられた。
中心市街地の活性化を目指し、奮闘する日々
平成26年に中心市街地活性化法が一部改正されたのをきっかけに、周南市でも中心市街地の活性化が叫ばれるようになり、黒神さんは周南市中心市街地活性化協議会の立ち上げから関わるなど、まちづくりに積極的に参加してきたそうです。そして、現在に至るまでタウンマネジメント会議の委員長を継続しています。
「地方再生に関する一つの法律ができたことで、周南市も周南市商工会議所も中心市街地の活性化に取り組みたい気持ちは大きかったのですが、なかなか体制が整わず足踏みしている状態でした。そんな時、当時の商工会議所の小野会頭と新周南新聞社の中島さんからお声がけいただき、タウンマネジメント会議の委員長をやることになったのです。毎月行う会議も、もう100回を超えました。準備期間を含めると10年以上活動していることになります。」
タウンマネジメント会議の委員長となった黒神さんは、メンバーとともに中心市街地活性化に向け、コンセプトや事業内容を練っていったそうです。会議には必ず周南市の職員も参加し、官と民が一体となって進めていくことにこだわったと言います。そして、その活動がJR徳山駅の南北自由通路と周南市立徳山駅前図書館の誕生に大きく影響したのです。
「現在進行中の再開発事業は、駅前に賑わいが戻りつつあるからこそ踏み込めたと思っています。『駅前にこれだけ集まっている人を、どうにか商店街までもう一回引っ張ってこれないものか』、そう考えることができたからこそ、再開発事業の計画が立てられたのです。中心市街地活性化協議会はいわばまちづくりの土台をつくっていたんですね。」
現在、JR徳山駅前は2023年秋の完成へ向け、「中心市街地全体の活性化の鍵と位置付ける」「来街インフラを徹底強化する」「周南、徳山にふさわしい“賑わいの場”を創出する」の3つの事業コンセプトのもと再開発工事が進んでいます。数年後にはマンション、ホテル、商業棟、駐車場など5つの再開発ビルが誕生し、周南市中心市街地はもっと賑わうことでしょう。
「私たちは常に危機感を持って再開発に携わってきました。そしてこれからも周南市活性化のため、力を尽くしていきたいと思っています。」
以前取材を行った小野 嘉久 さんの記事の中でも、再開発事業について詳しく取り上げていますのでご覧ください。
次の世代につなぐため、その時代にできることを
「御幸通りの穏やかな風景を眺めるたびに、本当に周南市はいい街だと感じます。このまちのために頑張ろうと改めて思いますね。でも一番好きな場所はと言われると、やっぱり遠石八幡宮です(笑)。神門越しにコンビナートと太華山が見えるのですが、そこに新幹線が通過するタイミングがあるんです。昔と今とが交わる瞬間と言いますか、他所では見ることのできない景色です。その景色を写真に収めるために来られる方もありますが、私にとってもお気に入りの景色です。」
周南市の好きな景色について話してくれた黒神さんに、まちに望むこと、次世代を担う若者に期待していることを聞いてみました。
「神道の場合、『今・現在』のことを『中今(なかいま)』と言います。過去と未来の真ん中という意味を表しています。私たちは祖先の、過去の人の恩恵を受けて、真ん中の今を生きています。ですから、私たちは次の世代、未来に渡すため今やれるべきことをやらなければなりません。今を一生懸命生きて、次の時代に繋がなければならないのです。私にとってのまちづくりとは、まさにそれを体現したものではないでしょうか。次の世代を担う若者が同じようにまちのこと、次の世代のことを想っていてほしいなと思います。」
黒神さんのまちへの想い、旧徳山市の話、これからの周南市の話と、どのお話も本当に興味深いものばかりでした。
機会があればぜひ一度、遠石八幡宮に足を運んで神門越しの景色を眺めてみてください。そして「中今」の考え方を少しでも思い出してもらえたなら幸せです。