国際大会でも活躍。パリ五輪を目指す、周南市出身の陸上選手。
1999年、周南市大島生まれ。小学4年生から陸上を始め、6年生の自己ベストは100m12.00秒(山口県小学生記録)。周陽中学校では陸上部に所属し、2年生で中学2年生歴代最高記録となる100m10.75秒を、3年生で日本中学生記録100m10.56秒を叩き出す。中学校卒業後は、リオデジャネイロオリンピック100mリレーの銀メダリスト・桐生祥秀選手を輩出した京都の洛南高校に進学。2年生、3年生ともに、インターハイ、国体、日本ユースの100mで優勝し、2年連続三冠を達成した(高校時代のベストタイムは100m10.23秒。高校歴代4位)。その後、陸上の名門校、東洋大学に進学し、2年時に追い風参考記録ではあるものの100m10.02秒を記録。第17回U20世界陸上競技選手権大会やナポリユニバーシアードなど国際大会にも出場し、日本の陸上競技界を牽引するランナーの一人として活躍。2022年4月、山口フィナンシャルグループに入社。これまで通り、東洋大学陸上競技場を練習拠点とし、2024年のパリ五輪を目指す。
「走るのが速いから陸上したら?」、きっかけは担任の言葉。
幼い頃から野球やスイミング、習字など、いろんな習い事をかけ持ちしていたという宮本大輔選手。陸上を始めるきっかけとなったのは、小学2・3年生の時の担任、冨田先生から掛けられた「走るのが速いから陸上をやったらいいんじゃない?」という言葉でした。
宮本選手が通っていた周南市立鼓南小学校(旧大島小学校)は児童数が少なく、2学年で1クラスを形成する複式学級。そのため、休み時間になると児童たちは一斉に運動場に飛び出して、学年の垣根を越えてみんなで追いかけっこをして遊んでいたそうです。その走り回る様子を見て、先生は声を掛けたのでした。
「確かに2・3年の時点で6年生を捕まえていましたけど、陸上を勧められるほど速いとは思っていませんでした。でも、その言葉がきっかけで小学4年生の11月に、陸上のスポーツ少年団『徳山RCコネット』に入団したんです。野球やスイミングがある日は休んでいいと言われたので、じゃあ始めてみよう、というくらいの感覚でした。」
まだ破られていない、中学記録の100m10秒56。
周南市陸上競技場を本拠地とする徳山RCコネットには、いろんな学校の児童たちが所属しており、中には岩国市から通う友だちもいたそうです。コーチから指導を受け、仲間たちから刺激を受け、宮本選手は走ることがどんどん好きになったと言います。そして、5年生の時には6年生に勝ってしまうほど、メキメキと力をつけていきました。
「山口県代表として小学生陸上の全国大会『日清食品カップ』の5年生の部に出場し、全国で3位になりました。それでようやく、自分はもしかしたら本当に速いのかもしれないと自覚したんです。ちなみに、100mの自己ベストは、5年生が13秒36、6年生が12秒00でした。」
小学校を卒業し、周陽中学校に入学した宮本選手は、迷うことなく陸上部に入部。野球もスイミングもやっていたのに、なぜ陸上を選んだのでしょう?
「5年生で全国3位、6年生で全国7位と、一番になれなかったことが悔しかったんです。どうしても陸上で一番になりたかった。」
中学1年生の時点で3年生たちとほぼ同タイムだったという宮本選手。競い合うのは常に上級生だったそうです。1年生時の宮本選手の自己ベストは、11秒28。そのタイムを0.01秒でも縮めるため、日々練習に励んだといいます。
「2年生でついに全国1位を手にしました。2年生時に出した100m10秒75は、中学2年生の日本記録なんです。」
しかし、これで驚いてはいけません。宮本選手は3年生で自己ベストをさらに更新します。
「3年生のときの自己ベストは、100m10秒56です。このタイムは中学生の日本記録で、今も破られていません。中学生時代はただただ楽しく走っていました。」
実は宮本選手、中学3年生で国体にも出場し、当時高校1年生だったあのサニブラウン選手に次ぐ2位に。この頃すでに、スーパースターとしての片鱗をのぞかせていたのです。
ますます陸上にのめり込んでいった宮本選手は、さらに速くなるために広い世界に目を向けるようになります。
山口県を飛び出し、陸上の激戦区に身を投じる。
宮本選手は、中学校を卒業すると山口県を離れ、京都の洛南高校へ進学します。近畿地区は陸上の激戦区、そして、洛南高校はリオデジャネイロオリンピックの銀メダリスト・桐生祥秀選手を輩出した陸上の名門校です。
「山口県を出たのは単純にもっと強くなりたかったから。山口県を問わず、いろんな高校からお誘いいただき、お話もさせていただきました。その中で、洛南高校陸上部の柴田監督の考え方に心を動かされ、洛南高校を選びました。もちろん、陸上の激戦区である近畿地区で揉まれたいという気持ちもありました。」
京都では寮に入り、陸上と学業に専念する日々だったといいます。新たなライバルにも恵まれ、宮本選手はさらにタイムを更新していきます。
「1年目からインターハイに出場して入賞しました。さすがに上級生には敵わず、1位にはなれませんでしたけど、結構いい試合ができたと思いました。そして、その年に世界ユース選手権に選ばれ、決勝進出も果たしました。このコロンビアでの試合が初めての国際大会だったので、今でもよく覚えています。」
その後も宮本選手の活躍は止まりません。高校2年生では100m10秒31を出し、またまた自己ベストを更新。さらに、100mはインターハイ、国体、日本ユースで全て優勝し、3冠を達成します。そして3年生のインターハイ近畿予選では、当時の高校歴代3位の記録となる100m10秒23を記録(現在は5位)。しかもこの年も、インターハイ、国体、日本ユースの3冠を達成したのです。
「高校2・3年生は、まさに敵なしっていう感じでした(笑)。でも365日ほぼ練習。とにかくがむしゃらに練習していました。世界を意識するようになったのは、やっぱりあのコロンビアでの国際大会です。100mで僕は7位入賞。優勝したのはあのサニブラウン選手でした。日の丸の国旗を肩にかけて競技場を歩くサニブラウン選手の姿を見たときに、何とも言えない悔しさと、僕もああなりたいっていう気持ちが込み上げてきました。」
高校1年生で世界を意識するようになった宮本選手は、さらに陸上道を爆進します。高校を卒業後、宮本選手が次なるステージとして選んだのは、またもや陸上の名門校、東洋大学です。
故障に悩まされた大学時代。それでも走り続けたい。
高校を卒業し、東洋大学に進学した宮本選手。東洋大学を選んだのは、室内トラックがあり、悪天候でも練習できる環境が整っていたからだそうです。ちなみに桐生選手も東洋大学の出身です。
「よく憧れの選手を聞かれるのですが、特定の選手をつくらないようにしています。なので、東洋大学を選んだ理由が『桐生選手を追いかけて』っていうのは、ちょっと違うかな。もちろん尊敬する選手ですが、東洋大学を選んだのはあくまでも環境です。とにかくたくさん練習できるところが良かった。」
宮本選手にとって、憧れの存在同様にライバルの存在も特定してはいないそう。
「常に意識しているのは自分のタイムのみ。いかに自分の走りを追求するか。陸上は他の誰でもなく、自分との戦いだと思います。」
大学でも日々練習に打ち込む宮本選手。大学生はほとんどが1番上のカテゴリー「シニア」に属するため、日本のトップ選手たちと競うことになります。
「大学時代もいくつか国際大会に出場しました。フィンランドで開催された世界ジュニアでは100m8位、ナポリで開催された大学のオリンピックともいわれるユニバーシアード競技大会では100m7位、代表に選ばれた400mリレーでは1位、ポーランドで開催されたシレジア2021世界リレーでも1位と、本当に色々な経験を積ませていただきました。もちろん、東京五輪も視野には入れていましたが、とにかく故障が多くて…。」
脂肪体の炎症や膝の棚障害、腱を傷めたりなど、大学時代はワンシーズンを万全の状態で走れたことがなかったというくらい、故障に悩まされていた宮本選手。東京五輪の選考会にも挑みましたが、膝が完治しておらず、満足のいく走りはできなかったそうです。結果は、選出ならず。
「せっかくの東京ということで、もちろん悔しさはありますが、ケガだったのである意味気持ちの切り替えはしやすかった。チームジャパンの走りはテレビで見ました。会場では応援しませんでした。なんせその時もケガしていましたから。」
大学4年間で、宮本選手の自己ベストは動くことがありませんでした。つまり、高校3年で出した100m10秒23のまま。しかし、2年生で出場した関東学生陸上競技対校選手権では、追い風参考ながら100m10秒02を記録。これは日本トップレベルの速さです。
「9秒台に近い感覚を体感したのは初めてのこと。筋肉のバランスを崩し、体の統制が取れていないような、バラバラになる感じがしました。でも、大きな自信につながりました。」
これまでの陸上人生とは打って変わって苦しいことの多かった大学時代。それでも宮本選手は走るのを辞めたいと思ったことは一度もなかったといいます。
「僕から走ることを奪ったら何も残らない。そうなってしまうほど、陸上に人生を費やしてきてしまいました(笑)。」
短距離は誰でもできる。だからこそ、限界まで極めてみたい。
ここで、これまでの人生の大半を陸上、短距離に費やしてきたという宮本選手に、そこまで虜にさせてしまう陸上の魅力を聞いてみました。
「短距離の魅力は誰でもできるところ。スパイクは必要ですけど、ボールやバット、ラケットなど道具は必要ない。ただ自分の体が全て。武器は自分の体だけっていう単純な競技ですが、その分、奥が深い。だからこそ限界まで極めてみたいんです。」
また、たくさんの仲間と出会えるのも魅力だといいます。
「陸上は基本的に個人競技。団体競技の場合はチームでまとまることが多いんですけど、他校の選手や違う県の選手と仲良くなりやすい。そうして出会った仲間は、ライバルでもあるけれど、孤独な戦いのよき理解者でもあります。団体で出場したときには、お互いを支え合ったり、讃え合ったりもします。学校やチームの枠を越えて、人対人で関係性が築けるというか、絆ができるというか、そういった面でも魅力的なスポーツだと思います。」
目指すのはパリ五輪。新たな挑戦は始まったばかり。
東洋大学を卒業した宮本選手は、2022年4月、山口フィナンシャルグループに入社。社会人生活を送りながら、以前と変わらず、東洋大学を拠点に陸上を続けます。
「大学を卒業したら山口県に関わりたいとずっと思っていましたので、陸上を続けていくことに理解を示してくれる山口県内の企業を探していました。すると山口フィナンシャルグループさんが快諾してくださったんです。東洋大学の陸上競技場もそのまま使わせてもらえることになりましたので、練習環境も変わることなく陸上を続けています。本当に感謝しかないです。」
ライフスタイルは大きく変わるものの、練習環境が変わらないことは宮本選手にとって何よりのメリットだそう。
そんな宮本選手に、今後の目標をお尋ねしました。
「今後も変わらず自分の走りを追求し、自己ベストの更新を目指します。今年はアジア大会も世界陸上もあるので、そこに絡んでいけたらいいですね。もちろん、2024年に開催されるパリ五輪も視野に入れています。」
聞けば、現在は故障箇所はなく、ベストなコンディションにあるといいます。アジア大会に世界大会、そしてパリ五輪。宮本選手が日本のトップアスリートとして世界の舞台で輝く日まで、もうカウントダウンが始まっています。願わくば0.01秒を競う世界の頂点に宮本選手に立ってほしい、そう思わずにはいられません。
可能性を見出してくれた周南市。今はない学舎に感謝。
宮本選手は周南市の南部、大島半島育ち。大島は徳山湾、大島干潟と、海に囲まれたのどかで風光明媚な場所です。学舎だった大島小学校は、児童数の減少により、粭島小学校とともに鼓南小学校に統合されました。
「統合で僕の小学校はもうありません。やっぱり寂しい気持ちはあります。小学校時代に全校児童みんなで走り回れたからこそ、足の速さに気づいてもらえましたし、そもそも大島小学校がなければ冨田先生と出会うこともなかった。大島小学校に通えたことは本当にラッキーだったし、感謝しています。」
中学校を卒業するまでを周南市で過ごしたものの、宮本選手の毎日は陸上漬け。走ることに一生懸命で、ほかの記憶があまりないのだとか。それでも記憶をたどり、思い出を語ってくれます。
「周陽中学校の思い出は…。あ、陸上競技場が近かったので、スポーツする環境に恵まれていました! 陸上競技場は徳山RCコネットの練習場でもあったので、小学校の頃から本当によく通いました。陸上選手としての僕の基礎を築いてくれた場所だと思っています。」
今回は、その思い出の地、周南市陸上競技場でインタビューを行いました。「ここは変わらないですね」と砂のトラックを眺めながら宮本選手は続けます。
「タータンが普及した今、全国的にも砂のトラックって珍しいですよね。ここもタータンだったら僕としては嬉しいんですけど。でも逆にそれを売りにしたらいいんじゃないかとも思うんですよ。『砂のトラックを走れるよ!』って。公式大会はできませんけど、子どもたちが練習するには向いているんじゃないでしょうか。まあ老朽化は進んでいるので、建物部分は改修を望みますけど。」
「懐かしいですか?」と尋ねると、宮本選手は実はちょこちょこ訪れているのだと教えてくれました。今でも徳山RCコネットの練習に顔を出し、歓迎してもらえるそうです。
帰省するたびに進化する周南市。まさかの田舎脱却!?
宮本選手が周南市を出たのは、まだJR徳山駅が新しくなる前でした。
「JR徳山駅がまだボロボロの時代に出ていったので、帰るたびにいろんなところが新しくなっていて、毎回驚かされています。帰省する頻度は年に1〜2回。気づいたら図書館ができて、スタバができて。スタバができたときは『よし! これで田舎脱却!』って思いましたね。」
小・中学校の友だちと今も交流がある宮本選手は、帰省するとみんなで集まることもあるそうで、昨年末は、JR徳山駅前の牛角で焼き肉を食べ、その後、スタバでグダグダ過ごしたと教えてくれました。
「どんなタイムを出そうとも、どんな大会に出ようとも、みんな変わらず接してくれます。いつまでも変わらない関係が心地いいですし、一緒にいるととにかく楽しいです。」
周南市でのエピソードが止まらない宮本選手に思い出の地についても聞いてみました。
「徳山動物園は思い出の場所です。まだ遊園地があった頃、家族で出かけました。遊具に乗った記憶もあります。古くて別の意味で怖かったことを覚えています。あとは、鹿野のグラウンド。野球をやっていたときによく行った場所です。近くにあるガソリンスタンドの恐竜も覚えています。あの恐竜を見ると、鹿野に来たなって思うんです。恐竜もまた見てみたい。もしかしたら、周南市で一番好きな景色かもしれません(笑)。」
思い出の場所を語る宮本選手の言葉一つひとつと表情から、周南市への愛が感じられます。
「そうそう、TOSOHPARK永源山(永源山公園)にも思い出があります! 幼稚園の頃、父が勤める会社の社宅に住んでいた時は、富田幼稚園に通っていたんです。その頃は永源山公園の滑り台でよく遊んでいましたよ。あの滑り台、まだありますか? 途中、真っ暗になって怖いんですよね。」
宮本選手が言うのは、長い滑り台のある「夢虫基地」のことでしょうか。今も子どもたちの遊び場になっています。
「ショックだったのは近鉄松下百貨店がなくなったこと。親の買い物によくついていってたので、すごく残念に思いました。駅前の商店街が寂れているのも悲しいですね。でも、現在、あの周辺は開発中ということなので、これからに期待しています。」
周南市は「ちょうどいいまち」。将来は周南市で過ごしたい。
インタビューも終盤に差しかかったところで、宮本選手に現在の周南市の印象を聞いてみたところ、「ちょうどいいまち」と答えが返ってきました。
「一言で言うなら、周南市は『ちょうどいいまち』。静かだけど田舎過ぎないし、海も山もある。コンビナートがあるし、働くところもちゃんとある。もう少し活気があったら申し分ないと思います。」
大学卒業後に山口県の企業を選んだのは、山口県に関わっていたいという思いと、山口県に少しでも恩返ししたいという思いがあったからだそうです。
「京都へ行ってからも、なんだかんだ山口県、周南市のみなさんにはずっと応援してもらっているので、いつか必ず恩返ししようと決めていました。その気持ちは今も変わりません。どのような形かはまだ見えていませんが、将来、子どもたちのための陸上教室や陸上に関するイベントは開きたいと思っています。」
そして、宮本選手は続けます。
「陸上を思いっきり頑張った後は、引退して静かにゆっくり過ごしたいです。そして、そのときに住む場所は、周南市がちょうどいいって思っています。お墓を作るのも周南市かなって。」
宮本選手は、引退した後の将来について、そして、まさかのお墓についてまで話してくれました。
宮本選手の競技人生はこれからもまだまだ続きます。2024年のパリ五輪を視野に、きっと今日も東洋大学の陸上競技場で走り込んでいるはず。そんな陸上に全力を注ぐ宮本選手ですが、心の片隅にはいつも周南市があることを今回のインタビューで知ることができました。
ちなみに、現在、サッカーJ2リーグのロアッソ熊本に所属する土信田悠生選手は、宮本選手の周陽中学校時代の同級生。二人は友だちだそうです。周陽中学校の同学年から2人もアスリートが誕生しているなんて、驚きですね。宮本選手が言うとおり、周陽中学校はスポーツする環境に恵まれているということでしょう。
宮本選手、今回はたくさんのお話ありがとうございました。今後のご活躍も大いに期待しています!