人との出会いが飛躍を生み、周南市で新たなアートを切り開く。
1974年、周南市(旧新南陽市)生まれ。高校までを周南市で過ごし、卒業後、東京にて建設業に従事。その後、Uターンし、同じく建設業で会社員をしながら趣味でイラストや絵画など創作活動を続ける。29歳の時、知人へ贈るための作品に切り絵を取り入れたことで、その魅力に気づき、独学で切り絵をスタート。今から約10年前、20年ほど続けた会社員生活に終止符を打ち、切り絵作家として独立。切り絵にアクリル絵画や金属など異なる素材を組み合わせることで独自のアートを確立。国際切り絵コンクール「トリエンナーレ」にて二期連続優秀賞受賞、「神の手ニッポン展」第三期神の手アーティストに選出など、その作品は高く評価されている。
ただ繊細なだけじゃない。テーマを重視した切り絵アート。
切り絵とは、「紙を切り抜いて人や動植物などの形を作り、それを張り付けた絵」(旺文社「国語辞典」より)。
切り絵作家として独立して約10年、今ではあちこちで目にする機会が増えた中村敦臣さんの切り絵作品は、辞書にある切り絵の概念とはすでに異なるフェーズにあると感じられます。0.5mmに満たない細かさでカットする技術はもちろんですが、何よりその独特な世界観が見る者の心を奪っていきます。
中村さんが最も大切とするのは、作品の「テーマ」。切り絵の技術を追求するのではなく、切り絵によって何を表現するのかに重きを置いています。つまり、中村さんは切り絵のその先にある「世界」を切り拓いているのです。
中村さんが切り絵を始めたきっかけも、偶然というか、ひらめきというか、他の作家さんとは少し異なる状況でした。
「切り絵をしようと思って始めたのではなく、自らが描いた作品に何か変化を付けたかったから、その時たまたま近くにあったカッターで切ってみたところ、すごく良かったんです。」
この時、中村さんは切り絵に大きな手応えを感じ、その魅力に強く引き込まれたと言います。思えば、切り絵単体ではなく、異なる素材と組み合わせることによってアートを完成させる現在の中村さんの技法は、この時点ですでに顔を覗かせていたのかもしれません。
「興味に嘘をつきたくない」ゆえ、作風は常に変化し続ける。
「僕の作品は常に変わるので、少し前の作品と最近の作品を見比べた時、同じ作家によるものだとは思ってもらえないかもしれません」と中村さん。中村さんの作品は、その時に興味を惹かれたものがテーマになるため、使う素材も技術もその都度変わり、毎回違う印象を与えます。そのため、製作工程の中で、最も労力を割くのはテーマの考案。自分が興味あるものの中からテーマを決め、深く深く掘り下げて、自分なりに解釈する過程が一番苦しいのだとか。しかし、決まったテーマを元に絵を描き、切る段階になると、「何も考えなくていい、脳みそが楽できる時間」になるのだと言います。しかも、その切る時間には、宇宙や科学に関する動画を流すのが常と言い、そこから次のテーマのヒントを拾っていると言うのですから驚きです。
絵画が歩んできた歴史を、切り絵で歩んでいく。
切ったものに色を付けたり、金属やアクリル絵画に貼ってみたり、他の人の絵画に大胆に張り付けてみたり…と、中村さんの作品は切ったものに対して、ひと工夫加えることで完成に至ります。これまでさまざまな作品を手がけ、技巧を施してきたにもかかわらず、アイデアが枯渇した経験はなく、創作意欲が薄れることも全くないそうです。むしろ、どんどん新しいことに挑戦したくなると言います。なぜなら中村さんは、「絵画が歩んできた歴史を、もう一回切り絵で歩んでいる最中」と考えているからです。
「僕が切り絵を始めた段階では、切り絵はまだアートに昇華していなかったし、今も昇華していないと思っています。絵画の歴史を見た時に『これ、今から切り絵で全部できるじゃん!』と率直に思いました。だとしたら、一つのことに固執するのはすごくもったいない。全部やってやろうと思っています。」
現在は製作にレーザーカッターを用いることもあるという中村さん。これまでにない斬新な発想で切り絵の新しいジャンルを開拓しています。
「小さい作品も大きい作品も全部独り占めしたい。」
目を輝かせ、ワクワクとした表情で夢を語る中村さん。今度はどんな作品で、どんな切り絵の世界に誘ってくれるのでしょうか。中村さんの次回作が発表されるその日が、心から待ち遠しくなりました。
ちなみに、中村さんの作品を気軽に楽しみたいのなら、山口市にある三笠産業株式会社と開発した「ブラックライトで光る蛍光折り紙」がおすすめです。中村さんが製作した水素からホウ素までの元素記号をモチーフにした切り絵が、10枚の折り紙(5種類×2枚)となっています。興味のある方はぜひ手にとってみてください。
さまざまな手法を取り入れ、これまでになかった切り絵アートの作品を世に誕生させる切り絵アートクリエイターの中村敦臣さんは、生まれも育ちも周南市(旧新南陽市)。「中村さんにとって周南市とは?」と質問を投げかけたところ、住み慣れた居心地の良いまちというだけでなく、「数々の出会いを生み、人生に大きな影響を与えた特別なまち」という答えが返ってきました。
全ての始まりは周南市。ご縁をつないでくれたまち。
子どもの頃から手先が器用でものづくりが好きだった中村さんは、高校を卒業して会社員となっても、絵画やイラストなど学生時代からの趣味だった創作活動をずっと続けていたそうです。
「ものづくりもそうですが、アート全般が本当に好きで、何にでも手を出しちゃうタイプです。サラリーマンになっても、創作意欲は抑えられませんでした(笑)。」
会社員時代、中村さんはいろんな作品をつくっては誰かにプレゼントしていたそうで、素人ながらオーダーを受けることも度々あったとか。ある時、オーダーのあった絵を描きましたが、とてもお世話になった方に贈るものだったため、「何かもう一つ変化をつけたい」と、驚くことに、たまたま近くにあったカッターナイフを手に取り、その絵を切ってみたのだと言います。
「思いつきで切ったのですが、すごくいいものができたんです。当時の僕は切り絵というジャンルを知らなかったので、新しいものを開発したような気分になりましたね。そこから独学で切り絵を始め、その魅力にどっぷりとはまっていきました。」
もし、このオーダーがなければ、中村さんと切り絵は出会うことがなかったかもしれません。オーダーしてくれたのは、周南市の人。中村さんは、周南市が切り絵作家になるきっかけをつくってくれたのだと言います。そして、創作活動を続ける中、周南市での人との出会いやつながりが、中村さんの世界を大きく広げていくのです。
初個展は周南市で。海外進出のきっかけも周南市。
切り絵に出会ってから数年の間、中村さんは会社員を続けながら、夜な夜な作品づくりをしていました。夕方仕事を終えて急いで家に帰り、お風呂に入ってご飯を食べて、20時には切り絵をスタート。なんと深夜1〜2時まで切り絵に没頭していたと言います。そんな生活を送っていた中村さんが、初個展を開いたのは2008年、会場は周南市けやき通りにあった「ギャラリー紅雲」でした。まだ会社員だった中村さんが、個展を開くことになったのも周南市での出会いがきっかけだったそうです。
「あるイベント会場で、『ギャラリー紅雲』のオーナーで、書家でもある渡邉紅雲先生に出会い、個展をやってみないかと誘われたんです。周南市で開いたこの初個展は、趣味で切り絵をする会社員から、切り絵作家へと気持ちが大きく傾いたきっかけの一つになっているのは確かです。『切り絵作家・中村敦臣』誕生の背中を押してくれた出来事ですね。」
初個展を終えた後、中村さんはニューヨークの国際グループ展に参加するチャンスを得ます。不思議なことに、そのきっかけもまた、周南市の人によってもたらされました。
「周南市にある竹勇銘尺八工房さんが、恩師がニューヨークでギャラリーをやっているからと紹介してくれたんです。世界中から集まったアーティスト4〜5人によるグループ展で、もちろん誰とも面識はありません。でもこのグループ展に参加したことで海外への敷居はグンと低くなりました。それまでは会社員と切り絵と二足のわらじを履いていましたが、独立へと加速させたのも間違いありません。」
その後、中村さんは会社員を辞めて切り絵アートクリエイターとして独立。周南市で紡がれたご縁が、中村さんにこれからの生き方を決めさせたのでした。
それから約10年、第1回国際切り絵コンクールで優秀賞を受賞したり、パリで開催されたジャパンエキスポの招待作家に選ばれたり、「神の手ニッポン展」の第三期神の手アーティストに選出されたりと、中村さんは切り絵作家として大きく飛躍し、現在に至ります。
神の手ニッポン公式HP
http://kaminote.org/
東京の事務所に所属。でも、周南市を離れない。
現在、東京のジーアイ・ホールディングスという企画・制作会社に所属しているという中村さん。所属に至ったのも出会いがきっかけでした。独立して5年目、「神の手ニッポン展」のレセプション(賓客の歓迎のためなどに催される公式の宴会)にて、組み木絵(木でできた絵)のパイオニア・中村道雄先生に挨拶をしたところ、たまたま居合わせたジーアイ・ホールディングスでアーティストのマネージャーをしている方と出会い、そこから交流がスタート。その直後、同社社長が切り絵作家を探していることが判明し、所属につながったというのです。
「マネージャーさんからハワイアンアーティストとのコラボ企画の依頼があり、連絡を取っていたタイミングで、社長が切り絵作家を探していたんです。実は以前から、もっと活動の幅を広げるために東京に出ることを考えていました。思ってもいないチャンスに恵まれ、自分の幸運さに驚きました。」
しかし、実際のところ、中村さんは今も周南市に留まったまま。それにはコロナ禍による世の中の変化が大きく影響しています。
「所属してすぐに新型コロナウイルス感染症が流行り出し、東京との行き来が難しくなりました。でもその一方で世の中のリモート化は一気に進み、周南市にいながら東京や他のエリアの仕事ができる環境が整ったんです。僕も妻も『仕事をするなら東京だけど、子育てするなら周南市』とずっと考えてきましたから、ここでも問題なく仕事ができるのならと周南市に留まることを決めたんです。」
周南市に居続けることを決めた中村さんに、周南市の魅力を聞いたところ、住みやすさ、そして、人の温かさだと答えてくれました。
「周南市、中でも旧新南陽市が特に大好きです。やっぱり生まれたまちですからね。まだ合併する前、旧新南陽市は小さなまちにも関わらず、有名な企業がたくさんあるから経済的にも潤っていて、子どもながらにまちを誇りに感じていました。それに、自然も豊かだからたくさん遊ぶところもあって、本当に過ごしやすいまちだと実感していました。もちろん、周南市全体も気に入っていて、その理由はやっぱり『人』ですね。みなさん優しくて温かい。でも僕は、周南市の人々の群れないところ、適度な距離感が保てるところもいいと思っています。外から入ってくる新しい人をすんなりと受け入れられる理由はそこだと思うんですよね。」
周南市で出会った人たちによるご縁で世界が広がった中村さんだからこそ、周南市の人々の人の良さを痛感しているのでしょう。中村さんは、「自分の歩んできた道は全て出会いやご縁と一緒に遡ることができる。自分が持っているものは、全部周南市の人が与えてくれた」と話してくれました。そして、それとは別に、現在の居住地域の居心地の良さも周南市を離れられない理由だそうです。
「お隣さんがすごくいい家族で、うちは家族みんなでお世話になっています。初めての子育てで右往左往しているときに、さらっとサポートしてくれたり、今でも子どもたちを連れて遊びに行ってくれたりします。妻曰く、僕との結婚の決め手はお隣さんだったと。『この家族がお隣さんなら、ここに住みたい!』と思ったそうです(笑)。」
これからも変わらず周南市での生活を楽しみ続けるという中村さんに、周南市へ望むことはないかと尋ねてみました。
もっともっとアートに寛容なまちになってくれると嬉しい
「周南市には市立の美術博物館がありますが、僕たちみたいなアーティストは使えない雰囲気があります。伝統的な油絵とか日本画だったらいいけど、みたいな感じの。それで結局、お隣りの防府市の会場で個展を開いたりするんです。なので、周南市全体にアートを応援する気風が育ってくれたら嬉しいなと思います。宇部市や山口市は『アートを盛り上げよう!』という感覚が市民に根付いているように見えて、やっぱり羨ましいですね。」
しかし、そんな状況を変えていくのも自分の役目だと中村さんは続けます。
「アートに対する土壌が育ってないからこそ、ある意味やりがいがある。絵画が歩んできた歴史を切り絵でもう一回歩んでいるような感覚で、他の地域で築かれているアートの土壌を僕が周南市で築いていく、それだけです。」
「いずれ周南市で大きな個展を開くことが目標」と語ってくれた中村さん。自分の作品を多くの周南市民に見てもらいたいだけでなく、大好きな周南市に切り絵で恩返しするのが夢だと語ってくれました。
一番思い出深い場所は、ずっとその変化を見つめてきた「永源山」
インタビューの最後に、周南市で思い入れのある場所をお聞きしました。すると、これまで真剣な表情で周南市のアートについて語っていた中村さんの表情はふわっと和らぎ、やさしい笑顔で子どもの頃のエピソードを交えながら答えてくれました。
「一番思い出がある場所、思い入れがある場所といえば、永源山ですかね。今みたいに公園として整備される前から僕の遊び場でした。実は、TOSOH PARK 永源山(永源山公園)を作ったのは、僕が以前勤めていた会社なんです。僕もあそこで作業していたんですよ。だから図々しくも『僕がTOSOH PARK 永源山を作った!』と思っています(笑)。」
それより以前の幼少期から常に永源山で遊んでいた中村さんだからこそのエピソードも話してくれました。
「昔は一番上は広場だけで、公園ではなく、景色が見渡せるスポットという感じでした。そこに石段ができ、噴水ができ、モニュメントができ…、と公園になっていく過程を僕はずっと見てきたんです。実際に工事にも関わりましたし。そうそう、大きい滑り台を上がったところに古墳があるんですけど、それを見つけたのは僕です! 当時、木を倒して根っこを取り除く伐(ばっ)開(かい)という作業をしていたのですが、その時に見つけたんですよ。」
なるほど、そんな出来事があったのなら、一番の場所になるのも無理はありません。中村さんの思い出話はまだまだ続きます。
「後は永源山と言ったら凧揚げです。子どもの頃だけでなく、今も自分の子どもを連れて行って凧揚げをしています。ちょうどいい風が吹くのか、肉眼では捉えるのが難しいくらいものすごく高く揚がるんですよ。最後、糸を巻き取るのに30分近くかかることもあります。糸の摩擦がすごいから、厚手のグローブを着用して挑んでいます(笑)。」
もし、永源山を訪れて、高く高く凧を揚げている人がいたら、それはもしかしたら、今注目の切り絵作家・中村敦臣さんかもしれません。目印はおしゃれなハット。中村さんのユニフォームだそうです。ただし、プライベートな凧揚げで被っていらっしゃるかは謎ですが。
中村さんの繊細かつ斬新な切り絵作品は、この温かく、ユニークなお人柄があってこその誕生であると実感できた、楽しいひと時となりました。中村さんの切り絵作品は、きっとここ周南市から世界に広がっていくはず。その時が来るのを楽しみにしています。
中村敦臣さんHP
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記事:藤井 香織 / 写真:川上 優
執筆時期:2022年2月
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