「いつもサッカーをしていた。」周南から全国へ、世界へと挑んだ選手の物語。
1982年、周南市(旧徳山市)生まれ。3つ年上の兄の影響を受け、小学2年生の時に地元の周陽スポーツ少年団でサッカーを始める。周南市立周陽中学校ではサッカー部に所属し、高校はサッカーの強豪、帝京高校に進学。卒業後、2001年〜2012年は浦和レッドダイヤモンズ(以下「浦和レッズ」という。)で、2013年〜2021年はアルビレックス新潟でプロサッカー選手として活躍。2004年には日本代表としてアテネオリンピックに出場、2005年〜2009年は国際Aマッチ16試合に出場するなど華々しい実績を残す。2021年12月に現役引退を発表し、2022年1月、アルビレックス新潟トップチームのアシスタントコーチに就任。チームのJ1昇格を目指し、新たな一歩を踏み出したばかり。
今回ご紹介するのは、現在、アルビレックス新潟でトップチームのアシスタントコーチを務める田中達也さん。2001年から昨年末までプロサッカー選手として活躍していた、サッカー好きなら誰もが知る、周南市出身の超有名人です。
2つ年上の兄の影響でサッカーの世界へ
「2つ年上の兄がサッカーをしていたので、その影響で自分もサッカーを始めました」と田中さん。初めて所属したチームは「周陽スポーツ少年団」、加入は小学2年生のときでした。その後、周陽中学校でもサッカー部に入り、中学3年生のときには、山口県の選抜メンバーにもなりました。ちょうどJリーグが始まったばかりの時期で、サッカーへの注目度や期待度が高かったということもあり、「小・中学生時代はほとんどサッカーしかしていなかった」と田中さんは振り返ります。「周南市、特に僕が通っていた周陽中はすぐそばに周南市サッカー場があり、当時からサッカーが盛んでした。この恵まれた環境が僕を育ててくれたと感謝しています」。
恩師と兄の友人が帝京高校への進学を後押し
学年が進み、進路を考える時期になった頃、田中さんが今後について相談したのは当時のサッカー部の先生でした。実は田中さん、当初は周南市内の高校への進学を考えていたそうです。ところが、先生から提案されたのは、サッカーの名門、帝京高校の受験でした。「先生からのアドバイスと帝京高校に進学した兄の友だちからの情報が後押しとなり、受験にチャレンジしました」。帝京高校のセレクションを受け、田中さんは無事合格。意外なことに、この頃の田中さんには、プロのサッカー選手を目指すつもりはなく、ただ単純に高校でも大好きなサッカーを続けたい一心での受験だったと言います。その一方で、帝京高校へと導いたサッカー部の先生は、キラリと光る田中さんの才能を見抜き、将来に大きく期待していたのかもしれません。
全国から集った猛者たちとサッカーに励んだ帝京時代
山口県から単身上京し、サッカーの名門・帝京高校に入学した田中さんは、全国から集まってきた仲間たちとのレベルの差に衝撃を受けたそうです。上級生に至っては、雲の上の存在に感じたと言います。そんな田中さんにできることはただ一つ、毎日練習に打ち込むことだけ。「正直、1年生の中でも下のレベルだと感じていました。帝京のサッカー部は退部する人も退学する人も結構います。僕も全然試合に出られない時は、そういった考えが頭の中をよぎったことがあります。けれど、そんな時でも歯を食いしばれたのは、送り出してくれた両親や友だちの存在があったからです」。そうして迎えた1年生の秋、田中さんは初めての公式戦に出場します。日々の努力が実った瞬間でした。
オファーを受けて初めて意識したプロの世界
田中さんは2年連続で全国高校サッカー選手権大会に出場し、1年時の98年大会は準優勝、2年時の99年大会では8強に進出し、大会優秀選手にも選出されました。また、FC東京の強化指定選手に登録され、浦和レッズからは入団オファーを受けたのです。「オファーを受けたことで、僕はプロになれるんだ…と、初めてプロを意識しました。自分には無関係の世界と思っていましたし、本当に毎日ただ練習に没頭していただけなので。自分のことなのに、こんな風にプロへの道を掴む人もいるんだなと思いました(笑)」。2001年、田中さんは浦和レッズに入団し、プロデビューを果たします。「子どもの頃はJリーグで活躍するカズさん(三浦知良選手)を見て育ちました。憧れていたのは、福田さん(福田正博さん)と小野伸二さん。浦和レッズへの入団を決めたのも、このお二人の存在が大きかったですね」。
偉大な選手たちとピッチに立ったプロ生活
浦和レッズに入団した2001年、4月には鹿島アントラーズ戦で初出場、5月には東京ヴェルディ戦で初得点を挙げるなど、プロとして華々しいスタートを切った田中さん。この2試合はプロ生活の中でも特に印象に残っていると言います。「デビュー戦はやっぱりすごく緊張しました。でも、まだ18歳でプロになりきれてないところもたくさんあり、当時はあまり責任を感じずにプレイしていたなって思います」。その後、田中さんは、2004年に日本代表としてアテネオリンピックに出場し、2005年から2009年の5年間には国際Aマッチ16試合への出場も果たします。「当時の浦和レッズには、福田さんや小野伸二さん、井原さん(井原正巳さん)と偉大な選手が在籍していたので、そういう選手たちの背中を見ながら『プロとはこうあるべき』というものを学びました。日本代表では中村俊輔選手や遠藤保仁選手、もう引退されましたが中澤佑二さんや闘莉王さんと一緒にプレーできたことは僕の誇りです」。2013年、田中さんはアルビレックス新潟に移籍し、2021年シーズンまで現役としてプレー。2022年にアルビレックス新潟トップチームのアシスタントコーチに就任し、今後はチームのJ1昇格を目指します。
「難しいけれど、面白い」、それがサッカーの魅力
「田中さんにとってサッカーとは?」と尋ねたところ、「僕からサッカーを奪ったら何も残らない。サッカーが全てです」と答えてくれました。そんな田中さんは、「難しいけれど、面白いのがサッカーの魅力」と言います。「サッカーは足でやるスポーツなので、ミスがすごく起こります。メンタルもすごく影響するので、いかに自分をしっかり持てるかも重要です。だからこそ挑みがいがあり、面白いんです」。プロ生活の途中、怪我にも悩まされた田中さん。試合に出られない時期をどう乗り越えるかが、自分にとっては一番大変だったと振り返ります。「ピッチに立つためには、まずは仲間との戦いに勝たなければならない。ピッチに立てない時間をピッチに立つためにどう過ごすか、すごく悩み、苦しみました。でも、それもサッカーの醍醐味だと思っています」。これから先、今度は指導者としての活躍が期待されます。「大勢のサポーターの前でプレーできる感覚は最高。立派な指導者となり、一人でも多くの選手や子どもたちにこの感覚を体験してもらいたい」。田中さんのサッカー人生はまだまだ続きます。
小・中学生時代を周南市で過ごした田中達也さん。子どもの頃の田中さんに周南市はどのように映っていたのでしょう。そして、大人になった今の田中さんは、周南市に何を思っているのでしょうか。「田中さんにとっての周南市」をお聞きしました。
周南市で育ったから、プロのサッカー選手になれた
「僕がプロサッカー選手になれた理由は、子ども時代をサッカーが盛んな周南市で過ごせたことにあると思います。」
田中さんが育った周南市周陽地区は周南市でも特にサッカーが盛んな地域で、周南市サッカー場でもよくプレーしていたそうです。しかも、当時はJリーグが始まって間もない頃。日本中で高まるサッカー熱という追い風もあり、小・中学生時代の田中さんは、「サッカーしかやっていない」と言ってもいいくらい、練習に明け暮れていたと言います。
「すぐ近くにいいグラウンドもありましたし、サッカーができる環境は整っていました。それに、いい指導者にも恵まれました。帝京高校を進めてくれた僕の恩師の荒瀬先生にも、周南にいなければ出会うことがなかった。高校進学後も先生とは交流があり、僕がプロになってサンフレッチェ広島と対戦するときは、広島まで足を運んでくれました。僕をプロサッカー選手にしてくれた周南市と周南市で出会った恩師や仲間たちには今でも感謝しています。」
楽しかったのはお祭り。当時のまちの様子も記憶に
「子どもの頃たくさん祭りがあって、それは結構今も覚えています。周陽の祭りだったり、冬のツリー祭りだったり。当時のサッカー仲間とよく行きましたね。」
サッカー以外の楽しかった思い出といえば、仲間と行ったお祭りくらいという田中さん。けれども、当時のまちの様子はしっかりと覚えているそうです。
「りぼん商店街にはよく行っていました。確かサンリオがありましたよね? 僕が行くことはなかったですけど(笑)。
魚屋さんとか酒屋さんとかも、みんな友だちとか同級生の家だったのですごくよく覚えています。そうそう、『たから』というスーパーはまだありますか? 中学生の頃、母親から昼ご飯代をもらったときは、必ず『たから』の中にある『ザ・レモン』っていうお店に行って、チャーハンとかお好み焼きとかたこ焼きとかを食べていました。上京してからも帰省したときは顔を出していました。懐かしい!」
次々と思い出される懐かしい景色に思わず笑顔になる田中さん。残念ながら、「スーパーたから」は数年前に閉店し、2020年に建物自体も取り壊されてしまいました。当時、田中さんのご実家があった団地も今はもうありません。そうやって年月が経つにつれて、なくなってしまった場所もありますが、今も昔も変わらずにあり続けるものもあります。それは、仲間との絆です。
「当時のサッカー仲間とはSNSで今も繋がっています。僕が昨年引退を発表したときも、たくさんのメッセージをもらいました。いつかみんなで集まりたいなって思ってます。」
高校時代の田中さんが周南市に帰れたのは年に1〜2回。しかも、長くて二泊だったとか。ほとんどを家族と過ごす時間にあて、友だちには1〜2人、会えるか会えないかだったと言います。しかし、短い期間でも必ずお世話になったスポーツ少年団やサッカー部には顔を出していたそうで、サッカーを通じたつながりはずっと続いていたのです。
すっかり変わった周南のまちに寂しさを感じることも
実家が山口市に引っ越したため、現在、田中さんが周南市に帰ってくる機会は少なくなったと言います。一番最近では7〜8年前に帰ってきたそうで、その時に感じたことを話してくれました。
「駅前のアーケード街でシャッターを閉めているお店が多く、やっぱり寂しかったです。僕が小さい頃はまだ賑わっていて、友だちとよくマクドナルドに集合していました。」
田中さんが最後に帰ってきてから今日までの間に、徳山駅周辺は開発が進み、さらにまちの様子が変わって賑わいを取り戻していること、そして、これからまだまだ進化することをお伝えしました。
「引退して少し時間が取れそうですし、近々周南市に行かないといけないですね。周南市は僕のふるさとですから、子どもたちにも見せたいんです。前に帰ったときは、動物園に連れて行ってマレーグマのツヨシくんに会いました。まちの中に動物園があるって、周南市の魅力の一つですよね。」
徳山動物園もリニューアルの真っ最中でグレードアップしていると伝えると、「また一つ行かないといけない場所が増えました!」と田中さんは目を輝かせていました。
サッカーが盛んなまちであり続けてほしい
最後に、田中さんが周南市に望むことをお聞きしました。
「僕をプロの選手へと導いてくれた、サッカーにいい環境がそのまま続くこと、欲を言えば、より充実することを願っています。サッカーが快適にできる環境は、全国的には年々減ってきていると感じます。周南市ではせっかくの恵まれた環境をなくさないよう、守り続けてほしいです。そしていずれチャンスがあれば、周南市の子どもたちにサッカーを教えたいです。育ててもらったご恩を、サッカーで返したいですから。」
「周南市に空港があったらもっと頻繁に帰れるのに」と笑う田中さん。ちなみに、帰ってくるときには山口市のご実家ではなく、ホテルを予約して周南市に宿泊すると約束してくれました。
レノファ山口FCに在籍する河野孝汰選手が周南市出身と伝えると、「実家に帰ったときに見に行きたい!」と、周南市からまた一人プロのサッカー選手が誕生したこと、地元山口県で活躍していることを喜んでいました。そしてその流れで、子どもたちへとメッセージをくれました。
「僕は一日一日しっかりとサッカーを楽しんだことで、結果的にプロの選手になりました。プロになるという目標を掲げていたわけではありません。先に夢や目標を決める生き方もありますが、なかなか見つけられない子どもたちもたくさんいると思います。でも、あまり焦ったり悩んだりしないでほしいです。僕のように目の前のことを精一杯やることで、将来が切り拓けるパターンもあるということを知っていてもらいたいです。」
日々の努力の積み重ねから、プロの選手にたどり着いた田中さんだからこそ言えるこのメッセージがたくさんの子どもたちに届くことを願います。
サッカーが盛んな周南市で育ち、常にサッカーとともにあり続けた田中さん。現役は引退したものの、まだまだサッカー人生は続きます。新たな挑戦は始まったばかり。田中さんが今度は指導者として輝くときまで、もうカウントダウンは始まっています。