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徳山ふくセンター/ふく処 快|取締役 渡邊規夫さん

「徳山ふぐ」を通じてまちを元気に! 目指せ、「食のまち・周南市」。

徳山ふくセンター/ふく処 快|取締役 渡邊規夫さん
01.ヒト

1972年、周南市築港町生まれ。徳山小学校、住吉中学校、徳山高校と高校までを周南市で過ごし、大学進学を機に神奈川県へ。大学を卒業後はUターンし、学生時代にお世話になっていた塾に就職。10年間塾講師を務めたのち、母が代表を務めるふくの加工・販売会社「徳山ふくセンター」に入社し、ふく料理店「ふく処 快」の立ち上げにも携わる。水産業界に転身し、早18年。現在は代表取締役副社長として、日々「徳山ふぐ」の未来を考え、周南市の水産業界を牽引する存在に。

※山口県ではフグのことを「幸福」の「福」にかけて「ふく」と呼びます。

02.モノとコト

周南市は「ふくのふるさと」。しゅうなんブランドにも認定!

美しい白い身、ほどよい食感、ほんのりと甘い上品な味わい…。高級食材として多くの人に愛される「フグ」。フグといえば下関市を連想される方が大半でしょうが、実は周南市もフグとはとっても縁が深いまちなのです。

本題に入る前に、まずは「フグ」についておさらいしましょう。

フグはいつから食されているの?

約3000年〜4000年前の貝塚でたびたびフグの骨が見つかっていることから、縄文時代には日本人はすでにフグを食べていたとされています。おいしさはもちろんですが、キョトンとしたようなその表情や、ぷく〜っと膨れる体など、愛され要素満載のフグ。しかし、実は猛毒があることでも知られます。

フグは危険!? 豊臣秀吉による「河豚食禁止令」

今は高級食材、そして秋の彼岸から春の彼岸までの名物として知られるこのフグですが、フグ毒を理由に食べることを禁じられていた過去もあります。フグ食禁止の始まりは今から遡ること400年以上前の豊臣秀吉の時世。フグ毒による中毒死が相次いだため、「河豚食禁止令」が出され、それ以降、徐々にフグ食が禁止されていったと言われています。そして、江戸時代になると藩士にフグ食を禁じる藩が現れ、明治時代には全国的に生フグの販売が違警罪として禁止され…と、いよいよフグを食べることが難しくなりました。

初代内閣総理大臣・伊藤博文がフグ食を解禁!

状況が一変したのは1887(明治20)年、初代内閣総理大臣・伊藤博文の下関市訪問でした。伊藤公が下関市の老舗旅館「春帆楼」に宿泊したその当日、海が大時化(おおじけ)で魚が全く揚がらなかったそう。そこで、当時の女将は罰を覚悟でフグを提供したのです。すると伊藤公はその味を絶賛! それから、伊藤公は山口県知事にフグ食解禁を働きかけ、翌年の1888(明治21)年から下関市ではフグが食べられるように。そこからフグ料理は全国に広まっていきました。

現在、フグ料理を提供できるのは、ふぐ条例に基づき都道府県知事が行う調理師試験においてふぐ取扱者資格(ふぐ調理師)を取得した料理人のみ。(正確にいうと資格者のもとで処理されたふぐを使った料理のみです。)フグの種類や毒の位置を正確に理解したフグのスペシャリストのおかげで、私たちはおいしいフグを安全安心に味わえているのです。

さらっとフグの歴史をおさらいしたところで、いよいよ本題へ。なぜ周南市が「ふくのふるさと」と言われるのか、その理由を紐解いていきましょう。

ここからは山口県ならではの呼称「ふく」と呼ばせていただきます。

周南市はふく延縄漁の発祥の地。

お話をしてくださったのは、ふくの加工・販売を手がける「徳山ふくセンター」の渡邊規夫さん。「徳山ふくセンター」は、ふく料理専門店「ふく処 快」も運営する会社です。

「周南市が『ふくのふるさと』と言われる理由は、瀬戸内海に浮かぶ粭島(すくもじま)が、ふくの延縄漁発祥の地だからです。ふくの延縄漁を発明したのは、高松伊代作さんという漁師さんだったと聞いています。」

瀬戸内海に臨む周南市は、黒髪島、大津島、粭島と、周南諸島を形成する離島を有するまち。いずれも海藻や稚魚といったふくのエサが豊富にある周防灘の海域に位置し、粭島では昔からふくがよく揚がっていたそうです。ちなみに、粭島で育った天然ふくは今でも「内海もの」と呼ばれ、高級品として扱われています。

さて、延縄漁とは、1本の幹縄(みきなわ)に釣り針をつけた枝縄と浮子(あば)をつけた浮け縄を間隔を空けて結びつけた漁具「延縄」で魚を釣り上げる明治時代から続く伝統漁法のこと。マグロやタラなどの漁にも用いられます。若き漁師・高松伊代作さんがふくの延縄漁を確立させるまで、なぜふくには延縄漁が用いられなかったのか、その理由は、ふくの持つ歯の鋭さにありました。

「ふくはその鋭い歯で糸を噛み切るため、釣るのが非常に難しかったそうです。そこで、高松伊代作さんが、『粭島型』と呼ばれる釣り針を考案し、それが延縄漁に用いられるようになったのだとか。」

高松伊代作さんは、釣り針以外にも、幹糸に部分的に銅線を使用するなど、ふくを釣り上げるためのさまざまな工夫を凝らしたのだそう。こうして粭島で誕生したふくの延縄漁は、日本各地の漁師の間で広まり、その後も改良を重ねられながら現在まで継承されています。なお、粭島には、1990(平成2)年に旧徳山市(現周南市)によって建立されたふく延縄漁発祥の碑とモニュメントがあり、そのモニュメント前では「ふく魚介類供養祭」も行われています。

周南市では一年中ふくが食べられる!

「ふくの季節と言えば冬」、世間ではそんなイメージが定着していますが、ここ周南市では一年を通じてふくを食すのが当たり前。渡邊さんが経営する「ふく処 快」でも年中提供しています。

「この辺りでは季節を問わずふくを楽しむ文化があります。昔は小ふくがたくさん揚がっていたこともあり、当たり前のように食卓に登場していました。だから、周南市にはいつでもふくが味わえる店が結構ありますよ。」

小ふくがたくさん揚がることから誕生したのが、現在、渡邊さんが取締役を務める「徳山ふくセンター」。1988(昭和63)年、周南市の5つの魚屋が集まって設立した会社です。

「みなさん自分の魚屋の切り盛りで忙しく、小ふくには構っていられなかったんです。でも、せっかく揚がるのにもったいないと。そこで、一手に加工や販売を扱う会社を作ったと聞いています。」

ところが、会社を設立したとたん、周南市では小ふくが揚がらなくなったため、今では養殖メインに切り替え、長崎県産や熊本県産といった国産養殖ふくを扱っているのだそう。

「とはいえ、ふくの延縄漁の発祥の地ですから、『ふくのふるさと』であることは変わりません。2015(平成27)年には、周南市のふくは、『徳山ふぐ』として『しゅうなんブランド』にも認定されています。」

周南市では、市の資源・特性を活かし、「周南市ならでは」「周南市らしさ」「周南市の良さ」といった個性と魅力を持った産品を「しゅうなんブランド」として認定しています。

「しゅうなんブランド」に認定後、「徳山ふぐ」の認知度は年々高まり、周南市民の間にも「ふくは周南市の特産品」という認識が根付き始めています。

「下関市に肩を並べよう、追い越そうとまでは思っていませんが、周南市を『一年中ふくが食べられるまち』としてもっと知ってもらえたら嬉しいですね。」

「幅広」で味わうのが周南市流!

「薄く切られたふくの刺身を美しく盛り付けた一皿は、まるで芸術品のよう…」と、「てっさ(ふく刺し)」と言えば、下の皿の模様が透けるほどの薄造りを頭に思い描きますが、周南市のふくは違います。厚み、幅がしっかりあり、1枚で口の中が満たされる食べ応えが魅力なのです。

「もちろんお店にもよりますが、周南市のふく刺しは一般的に厚みがあり、幅が広いのが特徴です。周南市内の他店では、『ベタびき』といわれる、大袈裟に言えば、1枚でお腹いっぱいになるような引き方をする店もあるんです。下関市のふくは3枚に卸したあと、さらにもう1枚卸してから引くので、薄く、幅の狭い仕上がりになります。周南市のふくは3枚に卸したあと、そのまま引いていきます。この引き方だからこその食べ応えをぜひ味わってもらいたいですね。」

箸を使って「てっさ」をぐるっと一回りする、あのいわゆる「大人食い」は、周南市のふく刺しには向いていないのだそう。1枚1枚をしっかりと噛み締め、じっくりと旨みと歯応えを堪能するのが周南市流です。もちろん、渡邊さんのお店でも味わえるので、どうぞ足を運んでみてください。

「徳山ふぐ」の存続を願い、挑戦し続けたい。

「しゅうなんブランド」の一つとして全国に浸透しつつある「徳山ふぐ」ですが、現在、新たな問題を抱えています。それは、ふく料理人の高齢化と後継者不足です。

「昔は一番ふくの出る冬場になると、この辺りの料理屋の職人がふくを引きにきてくれていました。料理場に職人さんが並んで一斉にふくを引く様子は風物詩となっていました。しかし、今は板前とお手伝いの方お一人の二人体制でどうにかやっている状況です。」

ふくを普通に捌くだけなら2〜3ヶ月あれば形になるそうですが、とらふくの大皿を引くとなれば2〜3年じゃ到底無理なのだとか。どこかのお店に入って何年もかけて修業する以外、その技は得られないそうです。

「周南市のふく文化をこれから先も守るには、技術を受け継いでくれる若い力が必要です。まずはふくが引ける料理人を育てていかないと、ふくを食す習慣さえ途絶えてしまう可能性もあります。」

さらに渡邊さんは「徳山ふぐ」のさらなる認知度向上を図るため、加工品の開発にも取り組みたいとその夢を語ってくれました。

「展示商談会に参加したときに、どうしても生ものは扱いづらさが拭えません。常温の加工品を一つでも多く誕生させることで、まずは『徳山ふぐ』を手軽に味わってもらい、そのおいしさを伝えていきたいです。」

現在、周南市や渡邊さんたち料飲組合のメンバーや地元の支援団体の努力の甲斐もあり、関東や関西でも「徳山ふぐ」が食されるようになってきました。「周南市の特産品と言えば『ふく』。しかも年中食べられる!」、そんな風に全国に認知される日も近いのではないでしょうか。

「ふく処 快」では、「徳山ふぐ」を年間通して味わえます。完全予約制の店なので、事前予約はお忘れなく。

03.インタビュー

海は特別なものではなく、いつもそばにある当たり前の存在。

徳山下松港に面する周南市築港町で生まれ育った渡邊さんにとって、海は小さい頃からとても身近な存在。港に停泊する漁船、行き来するフェリー、釣り人たち…、その様子は今も昔もさほど変わらないと話します。

「ただ、海と言っても港ですから、この辺りで泳ぐことはなかったですね。海水浴を楽しむのは、大津島へ行ったときくらい。釣りも好きじゃなかったですし、海遊びの記憶はほとんどないです。普通に近所の公園で遊んでいましたよ。私にとって海は、特別なものでも、楽しいものでもなく、どちらかと言えば日常や景色。そばにあって当たり前の存在だったのだと思います。」

現在、「徳山ふくセンター」と「ふく処 快」の取締役を務める渡邊さんですが、少年の頃は魚が大の苦手だったのだとか。

「魚屋の孫に生まれましたから朝ごはんから刺身が並ぶこともしょっちゅうで、『また魚か…』と。けれど、ポン酢で食べるふく刺しだけは食べられました。今思えば贅沢な話ですよね。」

「そんな自分が魚関係の仕事に就くなんて」と渡邊さんは笑いながら続けます。

「周南市に帰ろう」。県外に出て初めて気づいた居心地の良さ。

周南市にある5つの有力な魚屋によって「徳山ふくセンター」が設立されたのは、1988(昭和63)年のこと。渡邊さんは高校生でした。当時、代表を務めていたのは渡邊さんの叔父で、その叔父をサポートするために、渡邊さんの母親が事務を担当していたのだとか。

「叔父の会社で母が事務をしているのは知っていましたが、言ってみればそれだけのこと。私は高校を出て、広島の予備校に行って、神奈川県の大学に進学し、いろんなことを学び、いろんなひとたちに出会い、いろんな経験を積み、青春を謳歌していましたよ。」

県外に飛び出し、周南市よりはずっと賑やかなまちで暮らし、「パチンコもタバコもお酒も覚えました」と笑う渡邊さん。それでも大学卒業後は、地元に戻って就職したいと思っていたそう。

「都会も楽しいですが、やっぱり地元に帰りたかったんです。海がすぐそばにある築港町が私にとっては一番居心地のいい場所だと、離れてみて初めて気づきました。それに、周南市はほどよい田舎。賑やかすぎないし、寂しすぎない。しかも、コンパクトに全てが揃っているとても便利なまちなんです。一生住むなら周南市だと、そう思いました。」

渡邊さんが選んだ職業は塾講師。高校の頃通っていた塾に就職することを決めました。

母を助けるために家業に! 今はもうすっかり水産業界のひと。

念願の帰郷を果たし塾講師となった渡邊さんは、子どもたちの笑顔に囲まれ、やりがいを感じながらその職務を全うします。けれども、塾講師として働いた10年の間に、渡邊さんを取り巻く環境は大きく変わっていきました。

「塾講師になって10年が経とうとする頃、紆余曲折あって『徳山ふくセンター』の社長になった母は、『体力的に辛い』とこぼすことが多くなっていました。けれども人手不足のため、毎日忙しく働いていて…。さすがの私も、『手伝った方がいいのだろうか』と思うようになりました。」

その後、渡邊さんは一念発起して塾を辞め、家業に入ります。そして、「ふく処 快」の立ち上げにも携わります。

「ちょうど会社に板前がいたので、ふく料理店もやっていこうと。店を出すことで、周南市でふくが食べられることのPRに少しでもつながったらという思いもありました。そして、ふくのまちとして認知度がアップすれば、周南市に足を運ぶ方も増えるはずで、そうすれば、まち自体が元気になるとも考えました。」

「ふく処 快」が開店して早18年。渡邊さん自身も水産業界で18年目を迎えました。

「徳山ふぐ」の加工品を開発したい。目指すは「食」による活性化。

現在の渡邊さんは、周南市の将来を案じる毎日を送ります。

「私が子どもの頃、徳山駅周辺は本当に多くのひとで賑わっていました。それを目にしながら育ってきたものですから、今の様子を見て寂しくなることもあります。駅前の開発が進み、少しずつ賑わいを取り戻してはいますが、商店街はまだまだ。駅前から商店街にひとが流れるような何かができたらいいなと願っています。」

渡邊さんは、周南市にもっと多くの観光客を呼び込むには、「食」が大切だと考えます。そして、水産業界を担う一人として、「しゅうなんブランド」の「徳山ふぐ」のおいしさや魅力を発信するのが自身の役目だと話してくれました。

「このまちの発展のために私ができることは、やはり『食』という側面から周南市を発信すること。おいしいものがあれば、ひとは必ずやってきますから。周南市にあるおいしい食べ物の中でも、特に水産物の魅力を伝えるのは私の役目。『徳山ふぐ』を使った新たな加工品を開発し、『徳山ふぐ』のおいしさを知ってもらうきっかけを作りたいです。」

全国各地から食品関係の事業者が集まる商談会において、生ものはなかなかハードルが高いのだとか。渡邊さんは常温や冷凍で販売できる加工品に一縷の望みがあると考えています。

「『しゅうなんブランド』に認定されたことで、少しずつですが全国的に知ってもらえるようになりました。できればスーパーなどで普段から販売してもらえる手の届きやすい価格の加工品を開発したいです。まだまだ道のりは長いですが頑張ります。」

まちのあちこちに思い出がいっぱい。あの賑わいを取り戻したい。

周南市への愛を語ってくれた渡邊さんに、最後に思い出の場所を教えてもらいました。

「テアトル18番街にあった『どんどん』にはよく行きました。食券制だったんですけど、席につくと同時くらいでうどんが運ばれてきて、その速さにはいつも驚いていました。しかも、かけうどんが200円台で食べられたので、学生の私たちは助けられました。今はもうなくなっちゃったので、すごく寂しいですね。」

遠足のおやつを買ったのはみなみ銀座商店街のトポス、とくやま駅ビルトークスにあった雑貨店のスミヤでは、学生カバンに貼るための「住吉中」と書かれた透明シールを買っていたのだとか。トポスの真ん前にアピーナという雑貨店ができたことで、そのスミヤもなくなってしまったそう。

「当時は銀座通りもみなみ銀座もとにかくひとがごった返していました。ニチイの前にズラーッと自転車が並んで、停めるところがなかったくらい。あの賑わいを取り戻したいです。」

そして、渡邊さんは徳山駅前にオープン予定の商業施設にも期待しています。

「今は図書館とスターバックスで完結しているような印象がありますが、商業施設には複数店舗入るそうなので、より一層ひとの流れが活発になるのではと思っています。足を運んでくれるひとたちが、商店街まで足を延ばしてくれることを願います。そのためにも、『徳山ふぐ』をまちの目玉に育て、『徳山ふぐ』の名店を一つでも多く育てていかないといけませんね。」

「周南市の未来のために、自分にできることを」。「ふく処 快」の目の前に広がる港を愛おしそうに眺める渡邊さんから、郷土への深い愛と誇りが感じられました。

04.関連リンク

記事:藤井 香織 / 写真:川上 優

執筆時期:2023年8月

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